感想文は論理的じゃないの?──渡邉雅子『「論理的思考」の社会的構築』から考える“伝わる”ってなんだろう

論理って、世界共通語?

「論理的」って言葉、我々は日常的に使っているけれど、その意味を深く考えることって意外と少ない。たとえば「筋が通っている」とか「ちゃんとしてる」とか、なんとなく“良さそう”な響きで受け取ってしまう。でも、渡邉雅子さんの『「論理的思考」の社会的構築』を読んで、論理の概念が文化によって大きく異なることを知って、目からウロコだった。

たとえばフランスでは、小学校から大学まで一貫して「ディセルタシオン」という論文形式が教育される。その形式では「正(テーゼ)→反(アンチテーゼ)→合(ジンテーゼ)」という順番が絶対で、しかも一人称の「私」は使ってはいけないという決まりまである。

これは日本の教育でよくある、「自分の意見を自由に書いてみよう」というアプローチとは対照的。日本では“感じたことを書く”というスタイルが推奨されることが多い。でも、どちらが正しいかというよりも、論理的という価値観自体が文化に根ざして構築されているのだとしたら、それを絶対視することの危うさに気づかされる。


アリストテレス的論理の影響力

論理的思考といえば、まず登場するのがアリストテレスの三段論法。「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間」「だからソクラテスは死ぬ」。この構造は、古代ギリシャから続く「論理の王道」として、いまも学校や社会で信頼されている。

この形式が「論理=真理」として扱われる背景には、西洋における合理主義や科学的思考への信頼がある。しかし、この考え方が普遍的なものとして制度や教育に組み込まれていくと、逆にそれ以外の考え方が「非論理的」「感情的」「信頼できない」と評価されやすくなる。

本当にそれでいいのか?そもそも、論理とは誰が定義し、どのように広まってきたのか。そうした根本的な問いが、この章を通して自分の中に芽生えた。我々はどこまで「アリストテレス的思考法」に頼っているのだろうか?


読み手の文化と論理の関係

Kaplanの1966年の研究では、文章の「論理性」は読み手の期待にかなっているかどうかによって判断されるという。つまり、どんなに筋が通っていても、読み手の文化的背景とズレていれば「論理的でない」と感じられる可能性があるのだ。

たとえば、日本人には“まず結論”より“まず背景説明”のほうがしっくりくるかもしれないし、英語圏の人間には逆が自然かもしれない。つまり、「論理的」とは客観的なものではなく、文化や言語の慣習と密接に関係している相対的なものなのだ。

以前、生徒から「なんで感想文って“思ったこと→理由→まとめ”って決まってるの?」と聞かれたことがある。その生徒にとって自然な順序は、「とにかくワクワクした!理由はあとで説明するけど……」というスタイル。大人が良しとする“論理的な構成”が、必ずしも子どもや他の文化にとって自然とは限らない。こうした視点のズレを意識することが、多様な思考を受け入れる第一歩になる。


ディセルタシオンと論理の鍛錬

フランスの教育における「ディセルタシオン」は、まるで論理の武道のようだ。正→反→合の三段構成を厳守し、主観を徹底的に排除する。さらに、文字の美しさやインクの色まで採点対象になる。まさに「言葉の鍛錬」であり、「論理の芸術」と言えるかもしれない。

この厳格な訓練を子どもたちが小さい頃から受けることで、「思考とは整理されるべきもの」「表現とは型にのっとるべきもの」という価値観が身につく。その反面、自由な発想や個性の発露が抑制される可能性もある。

自分は字が汚いので、もしフランスの小学生だったら評価が大変だったかも知れないなと思う。でも、それを通して「世界には秩序とルールがある」という感覚を育てているのだとしたら、そこに意味があるのだろう。論理とは単なる知識や技術ではなく、「社会の中でどう考え、どう伝えるか」のトレーニングなのかもしれない。


文法と思考のつながり

「文法は思考の型をつくる」──この言葉が今回最も印象に残ったフレーズのひとつだった。名詞が実体を、動詞が動きを、形容詞が属性を表すように、言語の構造はそのまま思考の構造に影響する。

たとえば、「赤いりんご」という語順。これは感覚的には自然だけれど、文法的にも意味が通じるように構造化されている。文法はただの言葉のルールではなく、「どう世界を切り取るか」という思考の道具でもある。

日本では「まず感じたことを言葉にしてみよう」というアプローチが多いが、フランスでは「まず文法的に正しく組み立てよう」という考え方が先にくる。そこから論理の作法が生まれ、思考のあり方まで決まっていくというのは、とても興味深い。


自由じゃない作文から見えるもの

フランスの作文教育は、まるで職人の修業のように体系化されている。手紙、報告、ルール説明、風景描写、レポート、レシピなど、ジャンルごとの型が細かく決まっていて、それを繰り返し訓練する。

印象的だったのが「人物描写」の授業。友達の外見や性格を、感情を交えず客観的に描写し、それが誰なのかをクラスで当てるというもの。日本でよくある「○○ちゃんってやさしくて、いつも笑顔で……」という主観的表現とは対照的だ。

こうした訓練を通して、「客観性」「正確性」「構造化」が自然と身についていく。もちろん、それがすべてではないけれど、表現のあり方が思考の質に影響することは間違いない。


論理はひとつじゃないという希望

この本を読んで、「論理的=正しい」という思い込みがほどけていった。「論理的」とは、実は文化的なものであり、社会の中でつくられた価値観でもある。そしてそれは一つの正解ではなく、さまざまなスタイルや背景によって変わりうるものだ。

ある授業で「論理的な文章を書いてみよう」と課題を出したとき、一人の生徒がとても詩的で、情感豊かな文章を提出してきた。最初は「これは論理的ではないのでは」と考えたが、読んでいくうちにその構成力や言葉の説得力に引き込まれていった。

我々はは「論理」を枠にはめて教えようとするけれど、本当に大切なのは「伝わるか」「相手の中で響くか」なのではないだろうか。そう考えると、論理とは単なる構造や形式ではなく、「他者との関係を築くための手段」なのかもしれない。

そして少しだけ、これまで敬遠していた文法の授業にも真剣に向き合ってみようと思った。もちろん、それを「縛り」ではなく「自由のための道具」として扱えるようにするために──。

「論理的思考」の社会的構築