『モモ』ミヒャエル・エンデ著 ー 時間を取り戻すための物語

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読了した。物語の根幹にあるのは「時間とは何か?」という問いだ。そして、エンデは単にそれをファンタジーとして描くだけでなく、現代社会に生きる我々への痛烈な批評としても機能させている。読み進めながら、ある言葉を思い出した。「人間は、他者との関係の中でのみ自分を知ることができる」——まさに『モモ』は、時間と関係性の物語と言える。

すべてを聞き取る少女・モモ

物語の主人公モモは、もじゃもじゃ頭の不思議な少女だ。彼女の持つ唯一無二の能力は「話を聞くこと」。ただ聞くだけ。けれども、それによって人々は自分の言葉の奥底にある真実に気づく。道路掃除夫のベッポ、観光ガイドのジジ、そして多くの街の人々が、彼女の前では自分自身を取り戻す。

現代において、「聞く」という行為は過小評価されている。SNSでは「話す」「発信する」ことが重視されがちだ。しかし、聞くことこそが、他者との関係を深め、自己を形成する営みである。聴く力がなければ、学ぶこともできないし、関係を築くこともできない。モモが示すのは、そのシンプルながらも強靭な「聞く力」である。

灰色の男たちの正体 ー 効率化と生産性の罠

ある日、街に「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちが現れる。彼らは、人々に「時間を節約せよ」と説き、未来のために時間を貯めるように仕向ける。しかし、皮肉なことに、時間を貯めれば貯めるほど、人々の心は荒み、幸福を感じる時間が減っていく。

ここで思い出されるのは、資本主義社会の「効率化」という幻想だ。我々は「ムダを省き、最大のパフォーマンスを出すべきだ」と教え込まれる。しかし、効率を求めすぎることで、私たちは本当に大切なものを失ってはいないだろうか?

例えば、教育。学校では「無駄なことをせず、最短距離で正解にたどり着け」と指導されることが多い。しかし、学びとは本来、寄り道や失敗の中から生まれるものだ。学びとは、役に立たないことを経験し、後になって『あの経験があったからこそ』と思えるものだ。時間を節約しすぎることで、人は「考える時間」「感じる時間」「誰かとただ一緒にいる時間」を削られてしまうのだ。

ベッポの哲学と現代の私たち

モモの友人、道路掃除夫のベッポの言葉は、まるで禅僧のような含蓄がある。

「いちどに全部の事を考えてはいけない。次の一歩、次の一呼吸の事だけを考えるんだ。」

この言葉は、まさにマインドフルネスの実践そのものだ。我々は日々、未来のことばかりを考え、「今ここ」に集中することを忘れがちである。しかし、本当に大切なのは、目の前の道を一歩ずつ進むこと。それが結果として、大きな道へとつながるのかもしれない。

さらに、ベッポの哲学は「スモールステップ理論」にも通じる。目の前の小さなタスクを一つずつ片付けることで、最終的には大きな目標を達成できる。例えば、試験勉強や仕事のプロジェクトにおいても、ゴールばかりを見て焦るのではなく、一つ一つの積み重ねを大切にすることが重要なのだ。

時間と消費社会 ー 我々は何を「奪われて」いるのか?

『モモ』を読んでいると、現代社会の「時間の使われ方」に対する疑問が浮かび上がってくる。灰色の男たちは、時間を「貯めろ」と言うが、その実、人々の時間を奪っている。そして、それによって生まれるのは「時間のない世界」だ。

これは、まさに現代の消費社会と一致する。企業は、効率化を名目に労働者の時間を奪い、消費者には「この商品を買えば、時間を節約できます」と謳う。しかし、その結果、我々はますます忙しくなり、「本当に自由な時間」を失っていくのだ。

例えば、スマートフォンは「時間を有効活用するツール」として普及したが、実際にはSNSや通知によって我々の注意を奪い、逆に時間を浪費させている面もある。このような「時間を節約するはずのものが、逆に時間を奪う」という構造は、『モモ』の世界観そのものをあらわしているように思われる。

『モモ』が現代に問いかけるもの

『モモ』は、単なる児童文学ではない。それは、時間の意味を問い、私たちに「どう生きるべきか」を考えさせる哲学書でもある。灰色の男たちが支配するこの世界で、我々はどのように「自分の時間」を取り戻せるのか?

それは、モモのように「人の話を聞くこと」、ベッポのように「一歩ずつ進むこと」、そして「無駄な時間を楽しむこと」ではないだろうか。

また、人間は関係性の中でしか自己を確立できない。モモの物語が教えてくれるのは、時間を取り戻すには、他者と関わることが不可欠だということだ。

『モモ』を読むことは、自分の生き方を見直すことにつながる。この年になってはじめて読んだ『モモ』。時間に追われる日々の中で、たくさんのことに気づかされた一冊だった。