フキダシ論

漫画に関しての論考は実におもしろい。日本の漫画が描く物語性についてであったり、オノマトペであったり、人物の描写と背景描写の食い違いであったり、とにかく考察は興味深いものがたくさんある。

仕事柄、授業に使えたら楽しそうだなぁと邪な気持ちで読んでしまうことも多い。今回もそんな邪な気持ちが前面に出ながら読んだのだ。

仕方ないかもしれないが引用漫画が古いのが残念だ。この辺りは好みの問題。

ふきだしと絵との関係性や、ふきだしが持つ間であったり、そういう複雑な処理を小さな頃から漫画を読み続けている我々はたやすく?処理しているのだ。すごいね。

確かに、フキダシとコマ割りと絵の関係を言語化することで、内的に処理をしていたことが立ち上がってくる。フキダシ論の示すところはここだ。実におもしろい。

昔は少女コミックによく見られた、どうやって読むねんっていうセリフも、これに則って解読していくと得心がいくのだ。言われて初めて、確かに!が続く。

フォントにまで言及している。確かにフォントの差で表現する手法もあるなー。なるほどなー。確かになー(そればっか)。

そして一体どこからこのフキダシは出てきたのかに及ぶ。こうして体系的にフキダシを眺めていくと日本人がなめらかに漫画を読むことができるというのは奇跡に近いということがわかる。

妻は漫画の読み方を知らない。これはかなりセンセーショナルであったが、子供の頃から漫画を読んでこなかったせいだ。だから、逐一読み方を訊いてくる。読む順番、誰のセリフ、効果音の意味などなど。

となると漫画はかなり高度な心的活動を伴う読書活動であると言える。と同時に、キャラが喋る声も聞こえてくるのである。それについては『おしゃべりな脳の研究』が詳しい。

にしても、やはり取り扱う漫画があまり好きじゃないからのめり込みにくいんだよなぁ・・・