複数の言語で生きて死ぬ

娘の通っていた保育園では英語教育の時間があった。必要か否かで言えば、個人的には不要だ。3歳の時点では。日本語もままならないのに英語が身体化されるはずがないと考えるからだ。もちろん、英語のリズムや楽しさなんかを教えるというのなら別なのだが、どうも早期英語教育には「?」だ。

さて、そんなときにこの本を手に取ってみると、地球上には複数の言語で生きざるを得ない状況である人々はたくさんいることが分かる。そして、言語が消えてゆく状況である人々もいる。

たとえるならば、関東では関西弁は通じにくいから東京弁を使用する。これが複数の言語で生きるということだ。また、関西弁を話す人が減っていけば言語は消滅する。自分がその言語を扱う最後の一人になるということを想像したことはないだろう。関東で生きていくためには東京弁を扱えなければならない。東京弁をしゃべることができるというだけで、出世は保障されたと言っても過言ではない。しかし、家に帰れば家族では関西弁でコミュニケーションをとる。しかし自分の立ちの子供はどうだろう。関西弁を聞き取ることはできても話すことはできないのだ。まして、実家の大阪にいる祖母の話す強烈な関西弁は、もはや孫には異国の言葉にすら感じられるだろう。(幸いなことに、日本ではまだここまでの状況に至っていない)

これがワールドワイドで起こっているという話だ。

地球上に存在する7000以上の言語の中で、約3000の言語が消滅の危機に瀕している。言語が絶えることは、その言語が持っていた世界や文化も同時に失われることを意味し、「豊かな生態系を持つ泉が枯れる」と言う。

一方で、新たな言語も生まれており、言語は常に変化し進化している。母語だけを話す人から複数の言語を使い分ける人まで、様々な言語環境で生きる人々が存在し、それぞれが異なる関係性を築いているのだ。

最終章では、「他者とともにあるとはどういうことか」という問いが提起され、人間性の回復をめざす重要性が示されている。複数の言語で生き死ぬことは、他者と共にあることや自己と他者の連携を通じて豊かな関係世界を築く行為であり、人間的な成長や共生社会の回復に向けた取り組みが求められている。