ふたこぶらくだの果てに

娘が算数の文章題に挑戦しているのを横で見ている。

たかしくんは 5この あめと 3この チョコを もっています。あかりさんに あめを 2こ あげました。そのあと ゆきさんが チョコを 4こ くれました。たかしくんは いま あめと チョコを あわせて いくつ もっていますか。
しき                  こたえ

こんな問題だ。やらしいことに、この問題の前には足し算の問題が5題ある。文章を精読せずに数字だけを見て、あ、足し算やなと思いこんだ娘は式に

しき 5+3+2+4=14  こたえ 14こ

と書いて見事に不正解になる。

問題をもう一度声に出して読ませる。文節で1マスあいているので読みやすいが、それでも音読するとたどたどしい。日常会話と問題の文章の種類が異なるからだ。非日常文になったとたんに意味が取れなくなる。娘は日常会話だと、関西人らしくボケることもできるし、するどく言葉の端をつかんでツッコミをいれることもできる。大人相手に、~だから、~はおかしいと筋道を立てて話すこともできる。

しかしだ。こういう問題文になるとうまく読み取れない。そこで、一文ずつ理解ができているか確かめていくことにした。

Q.たかしくんは、最初いくつのあめを持ってるの?
A.5個!

Q.たかしくんは、最初いくつチョコを持ってるの?
A.3個!

Q.あかりさんにあめをどうしたの?
 ここで数を聞かず、HOWで訊いてみる。しばし固まって、問題文を黙読しだす。
 声に出して読んでごらん。音読をし終わって
A.あめを2個あげた。
Q.誰にあげたの?
A.あかりさんに。
Q.OK、じゃあもう一回。あかりさんにあめをどうしたの?
A.たかしくんがあかりさんにあめを2個あげた。
 ハッとなにかに気づく。消しゴムで+を消して-を書き込む。
Q.どうして-にしたの?
A.あげたって書いてるから。
Q.そうやね。あげる、もらうで足すのか引くのか考えんとあかんね。

Q.ゆきさんはチョコをどうしたの?
A.たかしくんに4個あげた。
 (ここは、くれる⇔あげる の変換はできるんや・・・よう分からんなぁと思う。いわゆる授受表現「やりもらい」問題のこと。物が移動することによる方向性の視点が切り替わるのだが、そこはス~とスルーしていった。)

Q.この問題は何を聞かれてるの?何を答えたらいいの?
A.どういうこと!?(キレ気味に)

Q.文章の最後に線を引いて、「たかしくんは今飴とチョコをいくつ持ってますか」って聞いてるよ。
A.わかってる!(キレてる)

Q.そしたら1つずつ式にしていこう。たかしくんははじめに・・・
A.5+3

Q.あかりさんにあめを2個あげて・・・
A.5+3-2

Q.ゆきさんがチョコを4個くれて・・・
A.5+3-2+4=

Q.左から解いていくよ
A.5足す3が8。8引く2が6。6足す4が10。答え10個!

こんな感じでやりとりをしていくと答えにたどり着ける。

この問題集は易から難にレベルアップしていくし、途中でこんな風に、足し算問題連発しておいて引き算を入れてきたりして良い。油断してんじゃねーぞ感が伝わってきて良い。

幼稚園児の短期記憶は少ないのでトレーニングをしていないと、そもそも一文前のことを脳に留めていられないのだ。留められていない状態で次の文、次の文と重ねられるのでそりゃあ誤答になるよね。それに加えて、最初に書いたような問題文は非日常文ときたもんだ。

数字だけを見て、適当に式をそれっぽく作って、それっぽく答えることで回避しようとしているのだろう。そして、適当に作った式が正解をすることも小学生低学年までなら十分にありうる。そういう、適当にやったことによって成功した体験を重ねることで、これでイケるやんと誤学習してしまう可能性もある。

本を読めて、説明書通りに組み立てられ、役所の案内が理解でき、社会生活を送るということは決してフツーのことではない。それなりに教育を受け、反復練習し、どこかで自覚的に理解をしようと努めない限りはなしえないことなのだ。

それで思い出したが、学力の分布が正規分布にならず、ふたこぶ分布になることが増えてきた。

「高校生で自分を導くのは難しい。でも、結局自分しかいなくなっちゃう。だってそういう存在いないでしょ。ということは自分に厳しくせざるをえない。自分を高めていこうと思ったら。自分に厳しくできる人間、中にはいますよ。そうするとどんどん自分を厳しい方に持っていく、厳しい道を選ぶ、それは若いうちにしかできないこと。でもそれを重ねていったら、大変で挫折することもあると思うけど、そうなれたらめっちゃ強くなる。でも、導いてくれる人がいないと楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくできる人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくる。厳しくできる人間はどんどん求めていくわけだから。うまくなったり強くなったりできる。求めてくる人に対しては求められる側もそれはできる。でも求めてくれなかったらできないから。でも自分を甘やかすことはいくらでも今できちゃう。そうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから。大人になって、社会に出てからも必ず来る。できるだけ自分を律して厳しくする」

2023年11月6日 スポニチより https://news.yahoo.co.jp/articles/1bc0413e8e21c03023b1cdcd8e001fb27d325192

イチロー選手のこれを読むと、これが正規分布でない理由の一つだろうと推察される。

ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変

同引用

教える側が厳しくできない時代であるとイチロー選手は言っている。
夏休みの課題ができていなければ、居残りをして1か月くらい部活もできずに課題をしている生徒が10年前にはいた。漢字テストで合格できるまで練習をさせることは10年前ならできた。少し前までは、理解できないことを理解できないまま放置しても許される時代ではなかった。

今は様変わりしたよね。自ら「助けてくれー!」て大人に言わないと助けることができない時代と言ってもいいのかも知れない。教える側がおせっかいに「ええから、聞け。俺が教えてやる!」ていうのは難しい時代になったのだ。

それは、そうすることを良しとしない、ありのままの自分が良い、学びは強制されるべきではないという考えを持つ人々の声に応じたことによる。できる人はますます伸びてさらにできるようになり、できない人はますますできずに放置される社会になった。

こういうのを教育格差の弊害と言う。

お話が逸れてしまった。

5歳の娘を通して社会を見ると、フツーの生活を送ることは決して普通ではないことが分かる。それでも、そいうことに気がついて、やり直ししようとか、学び直しをしようとする人々が応援される世界になったらいいなぁと思う。どんなに遅くても、脇道に迷い込んでも、歩き続ければゴールにはたどり着けるだろうから。