ピアノコンサートへ行く
自分が幼い頃の我が家は総じて文化的に下層の家庭であった。音楽に関しては辛うじてレコードプレイヤーがあったが、楽器を弾いたり、コンサートへ連れて行ってもらったことはない。また、美術館や博物館などにも連れて行ってもらった経験もない。読書環境も極めて貧弱。親が読書をしている姿は数えるほどしか見たことがない。家に本がないというのが常態なのだ。
ないことが常識なので他の家庭と比較するという発想すら湧いてこない。TVや漫画などで楽器を演奏していたり、美術館などの話が出てきても、どこか自分の知らぬ世界、自分とは無縁の世界と断じていた。
しかし大人になるに連れて自分の足らぬことに気が付く。幸いなことに学校の成績はそこそこ良かったので、それなりの高校や大学へ進学できた。そして、周りとの文化の違いに気が付く。そういう世界が現実にあるのだということに気が付く。
そうして今までの空白を埋めるように、文化的経験を大人になってからしていく。あぁこんな経験をもっと幼い頃にしたかったと思った。
教育環境は文化環境なのではないか。教育の機会は文化に触れる機会と同じではないのか。教育格差は文化格差とほぼ同義ではないのか。
そう考えると自分の子供にはできうる限りの教育を与えてやりたいと思う。
そうは言っても中流(と信じたい)の我が家にとって文化的な環境というのは皆無だ。家に名画があるわけでもなし、クラシックの演奏会を家庭で開いてるわけでもなし。ごく一般的な家庭だ。
そんな一般家庭でできることは、何を子供に経験させるかを考えることじゃないか。どんな大人になってほしいのか考えることだと思う。
自分の考えは六芸に依っている。いわゆる礼・楽・射・御・書・数の六つだ。礼とは葬礼のこと。射と御は武術のこと。書と数は学問のこと。そして楽とは音楽のこと。人が生きていく上で必要な教養を指している。
六芸の中で自分が教えられないのが楽なのだ。こればかりはお手上げだ。自分の子供2人にはぜひとも楽を身につけてほしいと願う。
さて長い前置きは終わって、ようやく本題へ。
4歳になった娘は、俺が弾くギターをよく聴いて育った。娘はキーボードでポロンポロンと音を出して一緒に遊んだものだ。幸いなことに妻の妹がピアノを習っていたので、おばさんと会うとピアノを弾いてもらう機会もあったようだ。
たまたま親が望むことと子供が望むことが一致した。こんなことは稀だろう。ピアノを学んでほしいと妻と話していた矢先のことだ。妻の友達から連絡が入った。今度ピアノコンサートを開くから時間があればぜひ。運命か。
そんなわけでピアノコンサートへ行ってきたのだ。たっぷり1時間もの間、娘は聴き続けた。座ることもせず立ちっぱなしで。息子は耐えられず5分で飽きた。
その後、妻の友達と話す機会を得て、どうか娘にピアノを教えてもらえないかと懇願した。妻の友達は快諾してくれた。運が良い。人との巡り合わせが良すぎる。
1回目のレッスンから帰ってきた娘は俺に何を学んだのか必死に教えてくれる。今日は指の番号を学んだそうだ。そして音階が階段であるという話。鍵盤のどこにドの音があるか。家に帰ってきて、学んだことを伝えることで知識は定着する。もっと弾ーきーたーいーと言いながら、家のキーボードを叩いている。ピアノの欠乏だ。ピアノへの飢餓感だ。
自分が親として子供にしてやれる教育はたくさんある。ただし、自分ができることは有限だ。大人になった時に、自分のように「あぁこんな経験をもっと幼い頃にしたかった」と思ってほしくない。
自立できるその日まで親としてできることをする。