娘の言語発達を観察する
娘の言語発達を観察していると面白い。
「おむらいす かでい おこめ おど
おこさまらんち やきそば そうめん」
記事のアイキャッチ画像にはこう書いているように見える。
「オムライス カレー お米 うどん
お子様ランチ 焼きそば 素麺」
なるほど。これはカタカナが書けなかった頃のものだ。気になるのは「かでい」「おど」の2つ。他は意味を取れるので問題ではない。
どうやら言語の習得の初期には
①耳で聞いたことを文字に変換する
②さらにその言葉がどのような意味を持つかを理解する
③どの文字の種類で書くことが適切かを判断する
これらの機能が未発達なようだ。
娘の耳には「カレー」が「かでい」に聞こえている。「おうどん」(我が家では妻が美化語を用いることが多いので、接頭辞の「お」が頻繁に付けられる)が「おど」に聞こえている。
聞こえてきている音を、自分の知っている平仮名で表現した結果がアイキャッチの画像の文字というわけだ。
余談になるが接頭辞の「お」「ご」をやたらと付けた言葉を覚えているので、接頭辞が取れた言葉が同じ意味であることを理解できないことがある。例えば「お米」を「米」というと、こめって何?お寿司と寿司など。
接頭辞であることを理解している大人と、接頭辞を含んで一単語と認識している子供との差が出てくる。何でもかんでも丁寧だからという理由で美化語を使いまくることの弊害である。
次の画像は
「ですとだんやさん です おどん こんすうぷ
ぴあの へび かーでん」
恐らくこうだ
「レストラン屋さんです おうどん コーンスープ
ピアノ 蛇 カーテン」
娘がこれを持ってきた時にこういった「メニューをどうぞ〜」
妻はツッコミを入れずに遊んであげる大人対応をするのだが、自分は一つずつ問う嫌なお客さんだ。
父「店員さん店員さん、このメニューは何って書いてるんですか?」
娘「えっと・・・ちょっと待ってねー」
父「レストラン・・・?」
娘「レストラン屋さんです」
父「なるほどレストランね。おどんって?」
娘「お・う・ど・ん!やで」
父「そっか、おどんって聞こえてる?」
娘「ううん、おうどんって聞こえてる」
父「でも、ここには お・う・ど・ん って書いてなくて お・ど・ん て書いてるよ」
娘「・・・(じいっと文字を見て考える」
父「こんすうぷ?こん?」
娘「コーーン!」
父「長音符がいるね、長音符って伸ばし棒のことやで。すうぷも、耳にはそう聞こえるけど、伸ばし棒がいるよ」
娘「コーンスープ!」
父「ピアノ!これは上手に書けてます。レストランにピアノがあるの?いいやん〜」
娘「ピアノにしますか?」
父「いいえ、しません。これは・・・へび?何て書いてるの?」
娘「・・・(じいっと自分の書いた文字を見る)へーびっ」
父「ええ!レストランで蛇を食べさせてくれるの?こわーい。じゃあ、最後・・・これは・・・?何て書いたの?」
娘「・・・(一番長く文字を眺めている)わかんない(照れ笑い)」
問い直されることで、初めて気がつくことがある。これが幼稚園だったら友達や先生から指摘されて気がつくのかな?気がつかないまま小学生になって、周囲の指摘からプライドが傷つくみたいなしょーもないことになりかねないとも思う。えへへと流せる子供なら良いのだが。
対話をしながら正しく書き直す。そしたら、ちょっと待ってて!と言ってメニューを修正して書き直してくる。この辺りの素直さやめげない心は性格だと思う。
逐一、訂正してごっこ遊びを止めるわけではない。今なら立ち止まって話を聞けるタイミングかなという時に、こういう話をしてみる。もちろん娘が自分の話を流す時もある。言語習得には時間がかかるし、なるほどという気付きがなければ、新たな言語を習得するのはさらに時間がかかるだろう。
大人になっても「ふいんき」なぜだか変換ができない みたいなネタが本当にある。もうこれはびっくりするくらいある。きっと自分もあるのだろうけれど、誰も指摘してくれないくらい年を重ねてしまった。実に悲しいことだ。指摘をされるということは学び直しができるということだ。
娘の言語習得過程を観察しながら、自分も改めて学ばなきゃなと思う。