人生はくるくる回る
物心ついた時から中学校に上がるまでは、あんなに親戚と頻繁に会っていたのに、以降は疎遠になっていったように思う。
親戚には娘と息子がおり、自分との年齢差は6歳だ。親戚のところに子供が生まれるまで、自分が何をしても優先されていた。孫も自分だけだった。何をするにも1番。しかも一人っ子なので、余計に可愛がられたのだ。
そんな親戚に子供が生まれてからは、愛情が分散されるようになる。当然だ。自分のところの子供が一番可愛いに決まっている。一人っ子の自分はそれが理解できず、愛情を独占できなくなったことを不満に思っていた。
親戚の子供に嫌がらせをしてしまったことがあり、おじさんにこっぴどく叱られたのだ。今までそんな怒りを見せたことのなかったおじさんの態度に強くショックを受けた。そして謝った。謝ったことに対して、おじさんは自分を抱き抱えて優しく諭した。
そうして自分はちょっとずつ大人になるのであった。
一人っ子は同世代と競争する経験がない。常に自分が一番になる。他者との関係を築かなくとも平気な一面もある。あるよね、一人っ子の方達?それが兄弟のいる人たちには信じられないそうなのだが、一人っ子は平気なのだ。もちろん時には兄弟がいたらなぁと思う時もある。しかし、5秒後にはやっぱり一人が一番と思うのだ。
そんな自分も中学生になり、親戚の家に泊まりに行ったり、どこか遊びに行ったりすることもなくなっていく。同世代の友達が増えて、親戚の子供よりも同世代といることを好むようになる。いわゆるギャングエイジってやつだ。
そうやって親戚と会うのは盆正月くらいになる。そして、今まで言葉遣いも気にせずタメ口で喋っていたのに、社会性も身についてくるのでおかしな敬語や丁寧語を使おうとしたり、それを使うことへの気恥ずかしさからタメ口もおかしな感じになっていく。
そうして一緒に過ごす時間も苦痛に感じるようになっていったのだ。
そうこうしている内に自分も成人し、親戚の子供も成人し、結婚し、子供も生まれと状況は変わっていく。こうやって人の人生はくるくる回っていくのだ。
自分が幼い頃に親戚がしてくれていたことを、今度は自分がするようになる。受けたことを返していく。おじさんやおばさん、ばあちゃんやじいちゃんはこんな思いで接してくれてたのかなぁと想像できるようになってきた。
でも、そう気がつくには時間がかかり過ぎた。
生きているのは、おばさんだけだ。おじさんも、ばあちゃんもじいちゃんもずいぶん前に亡くなってしまった。
親孝行したい時に親はなしとはよく言ったものだ。なるべく一緒に過ごして、なるべくたくさん話をして、なるべく写真を撮って、なるべく同じご飯を食べてということを、もっともっとしておきたかった。後から悔やんでもしゃーないけれど。どんだけそういうことをしていたとしても、満足いくことはないだろうけれど。
じいちゃんが古希のお祝いの時にこんなことを言った。
「これがうちの家族やな、ファミリーやなぁ」
急に何いうてんねん、ボケたんかいな、感傷的になってんのか?と大学生の自分は思ったのだが、それは今だとよく分かる。
やはり家族は大事なのだ。自分が生きてきて、これで良かったのだと人生を肯定できる一つが家族なんだろう。集まったみんなを見て、そんなセリフを言ったに違いない。
人生は巡り巡る。自分が受けたことを、次にパスする。