誰得オンライン授業

年が明けてオミクロン株が猛威をふるう。どこも過去最多感染者数だ。しかも日々更新していることに驚く。若年層の罹患が非常に多く、学校現場も戦々恐々としている。

ご多分に漏れず自分のところもコロナ感染者が出たため、オンライン授業へと移行した。

とにかく急なのだ。ウイルスは待ってくれない。学級閉鎖や学年閉鎖、学校閉鎖は突如訪れる。もうバタバタだ。こちらが準備する間もない。学校メールで保護者に閉鎖や休校のお知らせをしたら、次の動きを会議だ。予定の変更の変更の変更という感じで刻一刻と状況が変わっていくので、都度都度で対応策を打っていく。

いやいや、こういう事態になるって分かってるんだから対応マニュアルを用意しとけよ?って話だが当然してある。してあるのだが、個別の事案が複雑に絡み合い過ぎて、マニュアルなんて吹っ飛ぶのだ。

現場は紛糾する。

保健所の機能が麻痺しているので、学校側も待ち状態になる。その間に次の手を会議する。ひとまずオンライン授業の準備にかかる。指導案をオンライン用に組み替えたり、カメラで黒板を写した指導に変更したり、オンラインでも耐えうる課題を考えたりと、たまらなく忙しくなる。

これに加えて担任をしていたら保護者対応や教室の準備、出席簿の調整、家庭連絡などなどがある。定時で帰れるなぞ夢のまた夢だ。そんなバタバタしている時に限って管理職が、早く帰ってくださいね〜と、どの口が言ってんねんと思いながら仕事をしている。

オンライン授業は第5波の時にも経験済みだ。子供たちは塾でオンライン授業になっているので慣れている。

問題は何の教科をどのくらいの時間するかだ。国社数理英技家体美音の10教科全部やりゃいいじゃないかと自分は思うのだが、実技教科はなかなか首を縦に振らない。オンライン授業は難しいと言う。難しいなら、なおのこと試しておいた方が良いと思う。知見を貯めると言う観点からぜひともやっておくべきだ。失敗したとしても経験になるし、やってみないことには何が良くて何がダメかわからない。ミスったとしても、このご時世とタイミングだ。誰もそんなことで怒ったりはしない。机上では見えてこないことが実践では本当によく分かるものだ。

だから、難しいから今回はパスというのは非常に非常に悲しい。

オンライン授業の難しさは生徒の反応が見えない点にもある。我々は頭で考えている何倍も生徒の表情や身振りといった非言語の情報を受け取り、即座に応対していることが分かる。それが0というのはなかなかに厳しい。

生徒側は反応する手があるっちゃある。絵文字だったり、挙手マークだったり。しかし、これは単なるアラートだ。対話じゃないし、掛け合いも瞬時にはできないし、そうなれば当然ダイナミックな授業にはならない。

Peercastで配信していた時に、リスナー数50、レス0みたいなイメージだ。聞いてくれてる人はいるが反応がないってやつだ。しかも授業は学力をつけさせるという目的があるだけに、ペカのように自分勝手にやっていてOKなわけではない。教育課程を進めていき、目標を達成することが求められている。だからこそ、対面授業の方が互いにとって良いのだ。

塾のオンライン授業は基本的にカメラオフ、マイクオフだ。指名されて答える時にカメラオン、マイクオンにすることが多い。だから、生徒も聞かなきゃまずいと思うし、金銭が発生しているだけに、親としても子供が真面目に受けないと許さない。

一方で学校はそこまでの縛りはない。もしかするとオンライン授業に参加はしているが別窓でYouTubeを見ているかも知れない。子供が受けたくない授業と、どうしても学力を身につけさせなきゃという気概がない教師の場合だと、オンライン授業はうまいこといかない。公教育の限界がそこにはある。

学校のオンライン授業を真面目に受ける生徒は、普段からも真面目だし、それなりの学力がすでにある場合がほとんだ。そういう生徒は放っておいても自学し伸びていく。働き蜂の法則で言う2:6:2の最初の2だ。最後の2は学校でも授業を聞かない、やる気不振、低学力のどうテコ入れしても伸びない層だ。問題は残りの6。不真面目でも真面目でもない安きに流れやすい6だ。

縛りの少ない学校のオンライン授業に、いかに6の生徒を意欲的に参加させるのかは課題だと思う。なぜ課題かというと、オンライン授業を受ける子供の家庭環境が教師に少なからず影響するように思うのだ。

学校の中ではフランクに話し合える教師と生徒の関係であっても、オンライン授業では保護者が見ているかも知れない。その可能性があるならば、教師はいつもの教室のような態度で生徒に接するのは簡単なことではない。なにせ生徒の表情や態度が見えないのだ。教室における授業参観では表情や態度が見えるため、保護者がその場にいたとしてもいつもの関係性を維持しやすい。ところがオンライン授業ではそれが不可能なのだ。

ということは面白味もない、いわゆる普通の、毒にも薬にもならない、当たり障りのない先生と、保護者に監視されている中でオンライン授業を受ける、親の前だからとりあえず黙っとこうとするお客さん状態の生徒が出来上がるのだ。

2:6:2の6の生徒は教師の声かけで安きに流れずにがんばろうとする。一見無意味に見える行為が実は6の生徒を授業に引き入れる大事な行為なのだ。そういった行為が保護者のオンライン授業監視があることで教師が通り一辺倒の無味無臭の授業をしてしまいがちだ。

オンライン授業で得られるものはあるのだろうか。甚だ疑問だ。自学できるものはオンライン授業を活用してさらに伸び、そうでない者との差は拡がるばかりだ。リアルでの教育格差がオンラインでも引き継がれる。ここに逆転の要素はほぼない。

やはりGIGA構想を急遽前倒ししたのは尚早だったと思う。せめて機器くらいはまともな物を配るべきだった。あり物で工夫してがんばれ!というのは現場を疲弊させる。生徒も家にあるどのICT機器よりもスペックの劣る学校パソコンを、文房具のようには頻繁に使用しない。だからまともな機器を配ってほしかった。

子供たちはオンライン授業に意味を感じていない。塾の方が機器も人員も上だ。そんな状況でも生徒はがんばってくれている。尊敬に価する。だから我々もそれに応えようとするし、なんとかしたいともがいている。

現場の教師は逼迫している。マンパワーが圧倒的に不足しているからだ。とにかく人がいないのだ。だから余裕がない。余裕がないのに良い教育は困難だ。もちろん尽力するよ。尽力するけれど、教育には人と金をかけてくれよ。

誰が得するんだオンライン授業。