絵本を買ってあげよう

図書館へ娘を連れて行くと、何時間も離れようとしない。そんな娘を見ていると、絵本の読み聞かせをしたおかげかなぁと思う。

娘の前では意識してスマホを触らないように努めている。できる限り書物を読む姿を見せようと心掛けている。子供がスマホを触るのは親がスマホを熱中して触っているからだと考えている。親が夢中になっているものに、子が興味を惹かれるのは当然だ。

子は親の鏡とはよく言ったもので、自分の振る舞いを省みる良い言葉だと思う。

図書館では絵本のコーナーに走っていく。かわいらしい。ひらがなを読めるようになって、自分の知っていることばがあると嬉しくなるのだ。

それと挿絵。小さな女の子が出てくる絵本は自分と重ねて楽しんでいる。男の子が出てきたら幼稚園の同じ組の子と重ねたり、弟と重ねたりして、自分の世界を絵本に投影する。

そして、絵本で出てきた場面にリアルで出会うと、それを教えてくれる。ますます本を手に取ることが強化されていく。

スマホやタブレットが絵本の体験に向かないのは、疑似的にページをめくることが紙には勝てない点にある。実際にはめくることはせずスワイプし、瞳にはアナログの情報ではなくデジタル画面が入ってくるわけだ。それに比べると紙の絵本が与えてくれる体験はおおよそそれとは違う。

子どもが絵本から得られるものは、親が自分宛に読んでくれるという体験。紙のにおい。親からの語り掛け。読み聞かせをしている環境。親の声。本の装丁。デジタルでは得難い体験をいくつもさせてくれる。

大人になってデジタル書籍を自ら読むのとは訳が違う。絵本という体験を通して子供は心を育む。親もまた絵本という体験を通して親になるのではないか。

さて絵本を扱おうと思うと、お金の問題が出てくる。何といっても絵本の数は多すぎる。そして高価だ。10数ページしかないのに1000円を超すなんてざらだ。

さぁ、ここでどう考えるか。我が家は夫婦で話し合って、絵本は何冊買ってもよし。ただし買ったからには読み聞かせをすることという約束事がある。買っておしまい、は絶対に許しまへんってことだ。そこまでして与えたい絵本であるかどうか。そこに妻と自分の考え方の相違が生じる。

自分の考えとしては、本は一期一会。欲しいと思ったときに買わなかった本は、二度と自分の所に来ない。その本が高いから買わないのか、自分に理解できそうにないから買わないのか、よく分からんがとにかく今はやめとくか~って買わないのか。理由は様々だ。だが、一期一会でゲットしなかった本は、うちの書架に並ぶことはまずない。

一方で妻はなかなか本を買わない。読んでいる姿もほとんど見ない。でも読み聞かせはする。幼少期に受けたであろう読み聞かせの絵本なんかはよく覚えている。絵本を買うこともほとんどない。これ面白そうとか、娘がこの本を読みたいって言ってたで~とかそういう情報はよく言う。自分に本を買わそうとしているのか謎だ。ちなみに、いくらそういう伝聞情報を与えられても、自分で見聞きしたものではないので、自分は絶対に買わない。娘とのやりとりの中で絵本を選ぶのが主義だ。

絵本購入の代金の話だった。
「自分の絵本」これこそが購入する動機といえる。借り物ではない。ずっと傍にあり続ける価値。小さいころに読んでもらった本、読んだ本が大人になっても傍にあり続ける価値。そう考えると、購入費用はかさむのだけれども購入するには十分な理由になる。

また、本の選者は基本的に親になる。子が自ら選ぶようになると、これはこれで問題が生じる。我が家では娘が選んだ本は必ず買う。複数冊持ってきた場合は返答に悩む。お金に余裕があれば全冊買うし、適当に目に入った本を選んでいるように見えたら〇冊に絞ってごらんと声をかける。そうすると本当に欲しい本を考えるようになる。

とにかく本屋は子供にとっては宝箱のようなものなのだ。あれもほしい、これもほしい。下から見上げる本棚は、きらきらしているのだ。だから、どの本を選んだとしても宝に見えている。

大人ですら迷う絵本選びを子供が的確に十全に選ぶことなどできるはずもない。だから、子供が選んだ本は、その子が本を読みたい、自分だけのものにしたいという意思の表れである。

そこを親が勝手に、親の都合で、親が良かれと思って、こっちの本にしなよとか、この本よりこっちのほうが良いよとか、子供をコントロールしてはいけないと思う。

外面は適当に選んでいるように見えるかもしれないが、内面では本屋に来るまで色々と心の中で漠然とあったものが、目の前に具現化して本として現れたかもしれないのだ。親からすればソッコーで選んだように見えるものが、子供の内面で醸成されていたかも知れない。だから、子供が自ら選んだ本を否定したり、方向性を暗に示したりしないほうが良い。好きな本を好きなだけ触らせてやるのが親の務めな気がする。

一番酷だなぁと思う場面は、本屋に連れては行くけれど、本を買ってあげないパターンだ。欲しい!=知りたい!という知的好奇心を摘んでしまっている。もちろん金銭的に厳しいという家庭もあろう。だけれども、できれば、買ってあげてほしい。本を読む子はうんと賢くなる。その子が一人で生きていくときに、相方になるのが本だ。いつも本は傍にいてくれる。

あーだーこーだと書いたが、子供が興味を持っていることに関する絵本を選ぶときもあるし、親がこうなってほしいという願望を託した形で絵本を選ぶときもあるし、絵本ブックを参考にしながら年齢に適した絵本を選ぶときもあるし、自分の感性で選ぶときもある。どれも正解であると思う。ただ一点、子が選んだ本だけは尊重したほうがよい。

さて、話は図書館へ戻して。

図書館の圧倒的な素晴らしさは、商業ベースの本屋では扱わない本と出会えることだ。これに尽きると言っても良い。

大型本から紙芝居、見たことのない美しい装丁の本、図鑑、多言語の本、そりゃあもう大人ですらワクワクが止まらない。この広い図書館に一体どれだけの未だ知りえぬ本が置かれてあるのか。しかも来るたびに、新しい出会いがあるのだ。子供が興味を持たない理由がない。

娘は本を入れるカートを自ら引いて、あちこちを巡る。面陳された本の表紙を見たり、読み聞かせをしているどこかの親が持っている本を観察したり、年齢の近い子供が読んでいる本を眺めたりして、刺激をたくさん受けているのだろう。

また、司書の方にアドバイスをもらうときもある。とにかくあちこちの書架から本を持ってきてくれて、説明を娘にも自分にもしてくれるのでありがたい。大人との交流という面でも図書館は学びになる場所だ。

しかも、図書館に来ている人たちは皆、本を探しに来ている、本を読みに来ている、本を通して何かを体験しようとしている人たちなのだ。目的が同じ人たちがこんなにも集まる場所というのも大変に興味深い。

そんなわけで、まとまりのない文を書いてきたが、今日もこのあと娘と図書館へ行ってくる。
もし図書館へ行ったことがあまりないのなら、ぜひ休日や仕事帰りにでも寄って欲しい。いつもと違う空間で、いつもと違う出会いがきっとあるはずだから。