贈与に気付くことの困難さ

贈与について少し授業をしたので軽く。

宮沢賢治の『なめとこ山の熊』と『虔十公園林』を授業で扱った。いずれも贈与が関係してくる話だ。

黙々と自分ができることをして、誰に何と言われようと最後までまっとうする主人公が描かれる。なめとこ山の熊の小十郎もそうだし、 虔十公園林の虔十も贈与を次世代に見事にバトンパスする。しかも、二人とも亡くなる。そうすることで贈与を完成させることも忘れていない。完璧な童話だ。

身の回りにある様々なものはいつからそこにあったのか。当たり前のようにあるものは、一体どういう筋道で今自分の周りにあるのか。それは先代から贈られ与えられたものである、今の自分は見えないたくさんの先代たちによって生かされているのだ、ということに気が付くのはいつなんだろうか・・・?

生徒にはお年玉の話をよくする。今もらっているお年玉は親からの贈与である。お年玉は毎年もらいっぱなしの一方向だ。いつか自分が与える側に回るということを想像してごらん。そういう、一方向の贈与に気が付いた時、我々は贈与を次へパスすることになる。

ただこの話をすると、贈与に気づかされることになってしまい、正当な?贈与の送り主にはならないのではないかと、いつも懸念する。見返りを求めない贈り物の存在に自らが気付くとは角も難しいものだ。

学生に贈与の話をしてもピンと来る生徒はクラスにせいぜい2人ほど。他は筋を取り違えたり、そもそもなんの話をしているか皆目見当もつかない生徒がほとんどだ。まだ、自分の内なるものが発する違和感や葛藤や思考を言葉にしようとすることが難しい。また、こういった概念を獲得していないので、やはり中学生にはまだ難しい。なんとなーく分かるような、そんな経験が自分と重なると、目が輝き始める。

贈与の話はとても興味深い。デリダの誤配から始まって、内田樹先生のサンタクロースの話や、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』や田島列島さんの『子供はわかってあげない』をざーーっと読むと大変に気持ち良い。本当はマルセルモースの贈与論を読まなきゃなと思ってはいるのだが・・・。